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 世界心霊宝典ⅰ霊訓   二十五節以降 ~ 解説 梅原伸太郎

                                       
           
                              目 次
 
 
   二十五 節
啓示はそれを受ける霊格者の霊格の程度によって差が生じる───〝神〟の概念の変遷───バイブルを神の言葉と考えるのは愚か───〝五書〟とエズラ───エロヒスト、ヤハウィスト───サウルの時代、土師の時代、ソロモン・ヘゼキヤ・ヨシアの時代───〝預言書〟の編纂───ダニエル・バイブルに見る神の概念の進歩───己の無知の自覚が向上の第一歩
 


 
 
 
霊団の態度の変化───著者の態度に反省を求める───著者の霊視能力の発現───各種の霊視現象の体験───複数の世界的作曲家による音楽についての霊信
 

     
 二十七  節
〔民族と宗教の揺籃地インド───轢死者の霊が著者に憑依───霊的引力と斥力〕
 

 二十八 節
〔エジプトの神学者とユダヤ教───三位一体説───エジプトの宗教───現代生活の唯物性に関する議論───モーセの律法の原点───各国の三一神───エジプトとインド───霊的向上は信教の別と無関係───最後の審判説は誤り───毎日が審判の日───霊の究極の運命の詮索は無用
 

 

 二十九 節
低級霊に関する警告───現実の裏側の怖るべき実情───邪悪霊・堕落霊・復讐霊・偽善霊・物質文明と大都会の悪弊───興味本位の心霊実験の危険性───物理的心霊現象の価値───物的次元より霊的次元への脱皮の必要性───氏名を詐称する霊の危険性───いたずら霊の存在───個人的関心事は避けるが賢明
 




 
イースター・メッセージ(一八七四年)キリストに学べ───真の信仰とは───イースター・メッセージ(一八七五年)〝復活の真意〟───キリストの身体とその生涯が意味するもの───各種祭日の意義(クリスマス、レント、グッドフライデー、イースター、ペンテコステ、アセンション)───イースター・メッセージ(一八七六年)再びキリストの生涯───三種の〝敵〟(俗世、肉体、悪魔)───イースター・メッセージ(一八七七年)再びキリストに学ぶ───俗世に在りて俗世に超然とせよ───苦難の時こそ進歩の時
 
 
 
 


   
 三十一 節
著者の友人の自殺の波紋───自殺霊の運命───利己的人生の破滅性───悔恨が向上の第一歩───天使の救い───浄化の炎───己れの罪は己れが償う───人生は〝旅〟そのよろこびは〝向上の進化〟───生活の三つの側面(自己反省と祈り、神への崇敬と讃仰、三種の敵との葛藤)
 



 三十二 節
真理とは───一般向けの真理と魂の〝秘宝〟としての真理───真理は他人へ押しつけるべきものにあらず───甲の薬は乙の毒───真理のための真理探究こそ人間としての最高の道
 


 三十三 節
霊の身元を裏づける証拠の数々───著者の結びの言葉
 

 解  説 (訳者)
霊団の構成───霊団の身元───スピリチュアリズムにおける「霊訓」の価値───シルバーバーチ霊訓との比較───モーゼスの経歴と人物像───あとがき
 
 
   
 人間の代理人としてのモーゼス(梅原伸太郎)




 
 
 二十五 節

〔〝モーセ五書〟を新たな観点から読み直してみて私は、その中に神の観念が徐々に発達していく様子を明瞭に読み取ることが出来た。結局それが一人の作者によるものではなく数多くの伝説と伝承の集成にすぎないという結論に達した。その点について意見を求めると───〕
 





 われらの手引きによる聖書の再検討において、汝は正しき結論に到達した。汝をその方向へ手引きしたのは個々の書が太古の人間の伝説や伝承をまとめたものに過ぎず、そのカギを知らぬ者には見分けのつかぬものであるが故に、いかに信の置けぬものであるかを知らしめんが為である。

われらはこの点を篤と訴えたい。汝らの宗教書より引用せる言説にどこまで信を置くべきかは、むろん汝自身の理解力にもよるが、それと同時に、その引用せる書の正体と、その言説のもつ特殊な意味にもよる。最も古き書の中にも崇高なる神の概念を見出すことが可能である一方、その後に出たより新しき書の中にこの上なく冒瀆的で極めて人間的な不愉快千万なる概念を見いだすことも出来る。

たとえば人間の姿をして人間と格闘する神、対立する神への報復の計画を人間と相談する神、血の祝宴を催し敵の血を啜(スス)って満腹する残忍至極な怪物としての神、友人の家の入口に座し、仔ヤギの肉とパンを食する人間としての神、等々。

その説くところは完全に類を異にし、個々の話をいくら集めたとて、正しき理性を物差しとせる判断以上のものとはなり得ぬ。それ故に汝は、無知ゆえに真相を捉え損ね、過ちへと迷い込むことなきよう、そうした言説は奥に秘められた意味を理解することが肝要である。

 重ねて言うが、啓示とは時代によりて種類を異にするものではなく、程度を異にするのみである。その言葉は所詮は人間的媒体を通して霊界より送り届けられるものであり、霊媒の質が純粋にして崇高であれば、それだけ彼を通して得られる言説は信頼性に富み、概念も崇高さを帯びることになる。

要するに霊媒の知識の水準が即ち啓示の水準ということになるのである。故に、改めて述べるまでもあるまいが、初期の時代、たとえばユダヤ民族の記録に見られる時代においては、その知識の水準は極めて低く、特殊なる例外を除いては、その概念はおよそ崇高と言えるものではなかった。

 人間創造の計画の失敗を悔しがり、悲しみ全てをご破算にするが如き、情けなき神を想像せる時代より、人間は知識において飛躍的に進歩を遂げてきた。より崇高にして真実に近き概念を探らんとすれば、人間がその誤りの幾つかに気づき、改め、野蛮的創造力と未熟なる知性の産み出せる神の概念に満足できぬ段階に到達せる時代にまで下らねばならぬ。

野蛮なる時代は崇高なるものは理解し得ず、従って崇高なるものは何一つ啓示されなかった。それは、神の啓示は人間の知的水準に比例するという普遍的鉄則に準ずるものである。故に、そもそも過ちの根源は人間がその愚かにして幼稚きわまる野蛮時代の言説をそのまま受け継いできたことにある。神学者がそれを全ての時代に適応さるべき神の啓示としたことにある。その過ちをわれらは根底より改めんと欲しているのである。

 今ひとつ、それより更に真理を台無しにするものとして、神は全真理を聖書の全筆録者を通じ余すところなく啓示し、従って根源的作者は神であるが故に、そこに記録された文字は永遠にして絶対的権威を有するとの信仰がある。

この誤りはすでに汝の頭からは取り除かれておる。その証拠に、もはや汝は神が矛盾撞着だらけの言説の作者であろうとは思わぬであろうし、時代によりて相反することを述べるとも思うまい。霊界からの光が無知蒙昧なる霊媒を通じて送られ、その途中において歪められたのである。

 そうした誤れる言説に代わってわれらは、啓示と言うものがそれを送り届けんとする霊の支配下にあり、その崇高性、その完全性、その信頼性にそれぞれの程度があると説く。

またそれ故にその一つ一つについて理性的判断をもって臨むべきであること、つまり純粋なる人間的産物を批判し評価する時と全く同じ態度にて判断すべきであると説くのである。そうなれば聖典を絶対的論拠とすることもしなくなるであろう。

全ての聖典を(神が絶対無二のものとして授けたのではなく)単なる資料として今汝の前に置かれたものとして取り扱うことになろう。その批判的精神をもって臨む時、聖典そのものの出所と内容について、これまで是認され信じられて来たものの多くを否定せねばならぬことに気づくであろう。

 さて汝は「モーセ五書」について問うている。これは前にも少し触れた如く、何代にも亙って語り伝えられた伝説と口承が散逸するのを防ぐためにエズラが集成したものである。その中のある部分、とくに〝創世記〟の初めの部分は記述者が伝説にさらに想像を加えたものに過ぎぬ。ノアの箱舟、アブラハムの伝説等がそれであり、これらは他の民族の聖典にも同一のものがみられる。

〝申命記〟の逸話もみなそうであり、エズラの時代に書き加えられたものである。その他についても、その蒐集はソロモンとヨシアの時代の不完全なる資料より為されたものであり、それがまたさらにそれ以前の伝説と口承にすぎなかったのである。

いずれの場合もモーセ自身の言葉ではない。また律法に関する部分の扱いにおいて真正なる原典からの引用部分は例外として、他に真正なるものは一つも存在せぬ。

 いずれ、聖書の初期の書に見られる神の観念について詳しく述べることになろう。今はそうした書が引用せる神話や伝悦を見れば、他の資料によりその真正さが確認された場合を除けば、その歴史的記述も道徳的説話も一顧の価値だになきものであることを指摘するに留める。

〔この通信は私自身の調査を確認するところとなった。編纂者が引用したのはエロヒスト①とヤハウィスト②の二人の記録まで辿ることが出来ると考えた。それは例えば〝創世記〟第一章及び第二章の③と第二章の④の天地創造の記述の対比、ゲラルにおけるアビメレク王によるサラの強奪(〝創世記〟第二十章)と同第十二章の⑩~⑲及び第二十六章①~②の対比に見られる。私はこの見解が正しいか否かを尋ねた。〕
 









 それも数多い例証の中の一つに過ぎぬ。こうした事実を認識すれば、その証拠が汝の身近に幾らでも存在することに気づくであろう。問題の書はエズラの二人の書記エルナサン③とヨイアリブ④が引用せる伝説的資料である。

数が多くあるものはサウル王⑤の時代に蒐集され、あるものは更に前のいわゆる〝イスラエルの土師〟⑦の時代に蒐集され、またあるものはソロモン⑦とヘゼキヤ⑧ヨシア⑨の時代に蒐集されたもので、いずれも口承で語り継がれた伝説に恰好をつけたものに過ぎぬ。

啓示の本流がメルキゼデクに発することはすでに指摘した。それ以前のものは悉く信が置けぬ。霊に導かれた人物に関する記録も、必ずしも全てが正確とは言えぬ。が全体としての啓示の流れはこれまでわれらが述べた通りであったと思えばよい。

〔旧約聖書の正典がそのような形で決められてきたとなると〝預言書〟についてはどの程度まで同じことが言えるかを尋ねた。〕
 



 あの予言の書はすべてエズラ王の権威のもとに、現存せる資料を加え配列したに過ぎぬ。そのうちのハガイ書⑩、ゼカリア書⑪、マラキ書⑫はその後に付け加えられたものである。ハガイはエズラ書の編纂に係わり、またマラキと共にその後の書を付加して、ついに旧約聖書を完成せしめた。

この二人とゼカリアの三人は常に親密な間柄を保ち、大天使ガブリエル⑬とミカエル⑭がその霊姿を予言者ダニエル⑮の前に現わして使命を授けた時にその場に居合わせる栄誉に浴した。予言者ダニエルは実に優れたる霊格者であった。有難きかな、神の慈悲。有難きかな、その御力の証。


───〝ダニエル書〟第十章にある〝幻(マボロシ)〟の話ですか。

 ヒデケル⑯の土手のそばででの出来ごとであった。
  
───同じものです。と言うことは、予言者の言葉からの抜粋に過ぎないということでしょうか。

 抜粋に過ぎぬ。それには、もともと隠された意味があった。表面には出ておらぬ。霊現象の多発する時代が過ぎ去らんとする時に、過去の予言の記録より抜粋されたのである。そして再び霊の声のきかれる時代まで聖書も閉じられたままになったのである。

───ダニエルが大予言者、つまり霊格者であったと言われていますが、当時は霊的能力者は、珍しくなかったのでしょうか。

 ダニエルは格段に優れた霊的能力を具えていた。霊的時代の幕が閉じられるころは霊的能力も滅多に見られなくなっていった。が今の時代に比べれば霊力の開発に熱心であった。霊力と霊的教訓を大切にし、よく理解していた。


───となると旧約聖書に見られる類の霊言や霊視の記録が相当失われているに相違ありません。

 まさにその通りである。記録する必要もなかったのである。記録されたものでも汝らの聖書から除外されたものもまた多い。

〔それより二、三日後(十一月十六日)にかねてより約束の、神の概念についての通信を要求した。〕
 



 聖書に見られる神の概念については、これまで折にふれて述べてきた。この度は次の諸点すなわち神の概念が徐々に進歩してきていること、故にアブラハムの神はヨブの神に劣ること、われらが常に指摘している基本的真理───神の啓示は人間の霊的発達と相関関係にあり、人間の能力に応じて神が顕現されるものであることは聖書のいたるところに見られることなどをより明確に致したく思う。

 その基本的概念を念頭に置いた上でアブラハム、ヤコブ、モーセ、ヨシュア、ダビデ、エゼキエル、ダニエルの各書を読めばわれらの指摘する通りであることが一目瞭然となろう。初期の族長時代においては絶対的最高神は数々の人間的概念のもとに崇敬されていた。

アブラハム、イサク、ヤコブの親子三代に亙る神は、それを神として信じた当人にとっては優れた神であったかも知れぬが、近隣の族長の神よりも優れていたというに過ぎぬ。

アブラハムの父は汝も知る如く変わった神々を信じていた。息子の神とは別の複数の神を信じていた。いや実は当時はそれが当たり前のことであった。各家族がそれぞれの代表としての神をもち、崇め、誓いを立てていたのである。そのことは最高神のことをエホバ・エロヒムと呼んだことからも窺えよう。

 さらに、思い出すがよい、ヤコブの義父ラバンはヤコブが自分の神々を盗んだと言って追求し迫害したであろう。そのラバンはある時家族の神々の像を全部まとめてカシの木の根元に埋め隠したりしている。

こうした事実を見てもエホバと呼ばれている神はアブラハムとイサクとヤコブの神なのである。つまり唯一絶対神の神ではなく、一家族の神にすぎなかったのである。

 そうした家族神がモーセとその後継者ヨシュアの時代にイスラエルの国家神へと広がっていったのは、イスラエルの民が一国家へと成長した段階になってからのことであった。モーセでさえその絶対神の概念においてまだ他の神より優れた神といった観念より完全に抜けきっていたとは言えぬ。

そのことは、神々の中でエホバ神に匹敵するものはおらぬという言い方をしていることからも窺えよう。その類の言説が記録の中に数多く見られる。

かの「十戒」の中においてさえ、それを絶対神の言葉そのものであると言いつつ、イスラエルの民はその絶対神以外の神を優先させてはならぬと述べておる。ヨシュアの死の床での言葉を読むがよい。そこにも他の神より優れた神の観念を見ることが出来よう。

 真の意味での絶対神に近き観念が一般的となってきたのは、そうした人間神の観念に反撥を覚えるまで、成長してからのことであった。〝預言者〟ならびに〝詩篇〟を見れば、神の観念がそれ以前の書に比して遥かに崇高さを増していることに気づくであろう。

 この事実に疑問の余地はない。神は聖書の中において様々な形にて啓示されている。崇高にして高邁なるものもある。〝ヨブ記〟と〝ダニエルの書〟がそれである。一方卑俗にして下品なるものもある。歴史書と呼ばれているものがそれである。

が全体として観た時、そこに神が人間の理解力に相応しき形にて啓示されてきていることを窺うことが出来よう。

 またそれは必ずしも直線的に進歩の道を辿って来たともかぎらぬ。傑出せる人物が輩出せる時は、神の概念も洗練され品格あるものとなった。必ずそうなっている。ことにイエスが絶対神を説いた時が目立ってそうであった。

今なお優れたる霊が霊格者を通してその崇高なる神の観念を伝え、より明るき真理の光を地上にもたらしつつある。汝の生きてきたほぼ全世代を通してその働きかけは続いており、曾つてより遥かに明るき神の観念が啓示されつつある。

備えなき者は見慣れぬ眩しさに目を瞬(シバタ)かせ、光を遮り、暗闇へと逃げ込む。神の真理を正視し得るまでに魂の準備が出来ていなかったからに他ならぬ。


───聖火の伝達者というわけですね。確かに歴史を見れば時代より一歩先んじた人物がいたことは容易に知ることが出来ます。思うに人類の歴史は発展の歴史以外の何ものでもなく、同じ真理でも、その時点での能力以上のものは理解できないことが判ります。

そうでなければ永遠の成長ということが言えなくなるわけですから。いずれにせよ、まだまだ私は知らないことばかりです。


 汝が己の無知に気づいたことは結構なことである。それが向上の第一歩なのである。汝は今やっと真理の神殿の最も外側の境内に立ったような者であり、奥の院にはほど遠き距離にある。まず外庭を幾度も回って知り尽くしたのちに始めて中庭に入ることを許される。

まして奥の院を拝するに相応しき時に至るまでは永く苦しき努力を積まねばならぬ。が、それでよい。焦らぬことである。祈ることである。静かに忍耐強く待つことである。
                                            ♰ イムペレーター


 〔註〕
 (1)Elohist 旧約聖書最初の六書の中で神をElohimと呼んでいる部分の編者。
 (2)Yahwist 旧約聖書最初の六書の中で神を Yahweh と呼んでいる部分の編者。
 (3)Elnathan.
 (4)Joiarib.
 (5)Saul イスラエル第一代の王。
 (6)the Judges of lsrael 裁き人、執権者。 
 (7)Solomon 紀元前十世紀のイスラエルの王。
 (8)Hezekiah 紀元前8‐7世紀のユダ王国の王。
 (9)Joshia 紀元前7世紀のユダ王国の王。
(10)Haggai 紀元前520年頃のヘブライの予言者。
(11)Zechariah 紀元前6世紀ころのヘブライの予言者。
(12)Malachi 紀元前五世紀のユダヤの予言者。これがイムペレーターと名のる霊であると言う。
         (解説参照)
(13)Gabriel 宇宙経綸を与る神庁の最高位霊。聖書においては七大天使の一人とされている。
(14)Michael 悪の勢力との対抗を与る霊団の最高位霊。聖書においては四大天使の一人とされている。
(15)Daniel 紀元前6世紀のヘブライの予言者。
(16)Hiddekel チグリス川 Tigris のこと。トルコ、イラクを通りユーフラテス川と合流してペルシャ湾に注ぐ。
 










 
 












 二十六節

〔一八七四年一月十八日。この日までの相当期間ずっと通信が途絶え、新しい局面に入りつつあるようでもあり、また、私が例の(身元確認の)問題について猜疑心を棄て切れずにいるために霊側が一切手を引いたようにも思えた。この猜疑心が何かにつけ障害となり、この自動通信だけでなくサークルによる交霊会にも支障を来していた。
 それが突如この日になって様子が一変し、新たな指示と共に一種の回顧のようなものが綴られた。その中から私的な問題に係わらない部分を紹介する。〕
 









 ここで、これまでわれらが汝を導かんとして努力してきた跡を振り返ってみるのも無駄ではあるまい。少なくともわれらが述べて来たことを詳細に検討し直し、われらが汝の為に計画している広大なる真理の視界を見渡してみるよう勧めたい。

そうすれば汝がこれまで抱き続けて来たものより遥かに崇高なる神の観念が説かれていることを知るであろう。汝が重ねて証拠や実験を求めてきた反論に対しても、われらは無益と思いつつも一つ一つ応対してきた。

それでもなおかつ汝の心に巣くう猜疑心を拭い去ることを得なかったのは、汝の猜疑的態度がもはや一つの習性となり、その猜疑心の靄(モヤ)を突き抜ける機会を滅多に見出し得なかったからに他ならぬ。汝は自らを突き抜けることの出来ぬ帳(トバリ)で包み込んでいる。その帳が上がるのは時たまでしかない。

 われらはむしろ、そうした汝とわれらとの関わり合いをつぶさに見て来たサークルの同志の扱いにおいて成功したといえる。われらはそれを究極における成功を暗示する証であるとみなし、感謝しているところである。

つまり汝のその、他を寄せつけぬ猜疑に満ちた精神状態をも最後には解きほぐすことが出来ることであろう。汝としてはいかに真剣なる気持ちとはいえ、われらが大名義分とせるものを受け付けようとせぬ心を得心させる証拠を持ち合わせぬことが、われらの仕事の最大の障害となっている。

殊に汝がわれらの障害となる条件をも頭から無視して執拗に要求する特別の実験は、応じようにもまずもって応じられぬだけに、なおさら障害となる。これは是非とも理解し心しておいてほしいことである。猜疑心から実験を計画し、われらを罠にはめんとする如き魂胆は、その計画自体を破壊してしまうことであろう。

もしもわれが汝が怪しむが如きいかがわしき存在であるならば、そのような悪魔の使者とはこれ以上関わり合わぬがよかろう。が若しそういうつもりはなというのであれば、潔くその不信の念を棄て去り、素直さと受容性に満ちた雰囲気を出して欲しく思う。

たとえ僅かの間であっても素直な心で交わるほうが、今の汝の頑な猜疑に満ちた心で何年もの長きに亙って交わるより遥かに有益なる成果を生み出すことであろう。われらは汝が訝(イブカ)っているが如く、汝の要求に応じたくないのではない。応じられぬのである。

サークルの同志からの筋の通れる要求は大事にとってある。かりに要求どおりの対応が出来なければ、またの機会に何とか致そう。これまでの汝との関わり合いを振り返れば、われらが常にそうしてきていることが判るであろう。それが交霊の一般的な原理なのである。

 さらに、汝がしつこくこだわっているところの、汝の指示に基づく実験を仮に特別な証拠的情報を提供するという形で催した場合、たとえ汝の思惑どおりに運んだとしても、その情報は十中八九、汝の意思とサークルの意志との混同によって不完全にして信頼の置けぬものとなろう。そして結局は汝の目的は挫折するであろう。が、

証拠ならばすでにわれらに出来得るかぎりのものを提供してきた。汝のこだわっている問題すなわち霊の身元確認の問題も最近一度ならずその証拠となるものを提供して来ており、汝もその価値を渋々ながら認めている。

 このところわれらは、これまで以上の働きかけは控えている。が、これまでのわれらの為せるところを振り返ってくれれば、同志とのサークル活動においても、またこうした汝だけとの交霊においても、あくまで完全なる受容的態度を維持するように努め、汝の理性的判断に基づいて受け入れるべきは受け入れ、拒否すべきは拒否し、最終的判断はまたの機会までお預けにせよとのわれらの助言が当を得ていたことが納得して貰えるものと信ずる。

証拠にも段階があることを忘れてはならぬ。そしてそれ自体は無意味と思われるものでも、それ以前の、あるいはその後の事実または言説によって大幅にその価値を増すこともあり得ることを心しておかれたい。

 今の汝には如何にも曖昧に思えることも、これよりずっと後になって明確にされることもあり得る。そして長期間に亙って積み重ねたる数々の証拠が日を追ってその価値を増すことにもなる。平凡なる成果にせよ特殊なる成果にせよ、こうして汝に語りかけるわれらの誠意が一定不変であることが何よりも雄弁にその事実を物語っていよう。

少なくとも汝は、われらが汝を誑かしているとは言い得ぬであろう。われらは断じて邪悪なる影響を及ぼしていない。われらの言葉には真実味と厳粛さが籠っている。われらこそ神の福音を説く者であり、汝の必要性に合わせ、汝の啓発を意図しつつ説いている。

 故に、われらが、果たして致命的かつ永遠の重要性をもつ問題について汝を誑かさんとする者であるか否かは汝みずからが責任を持って判断すべきことであり、われらの関与し得るところではない。

これほどの証拠と論理的帰結を前にしながら、あえてわれらを邪霊の類と決断する者はよほど精神の倒錯せる理性なき人間であり、およそ汝の如き、われらを知りたる人間のすることではあるまい。われらの言葉を篤と吟味せよ。神の導きのあらんことを。
                                        ♰ イムペレーター


〔この頃を境に、死後の存続を納得させる証拠が次々と出て来た 。それについては細かくにべていると霊訓の流れから逸れる恐れがあるので控える。あるものは筆記の形で来た。筆跡、綴り方、用語などが生前そのままに再現されていった。私の指導霊によって口頭で伝えられたものもある。ラップで送られてきたこともある。

また私の霊視で確認したものもある。このように手段はさまざまであったが、一つだけ一致する特徴があった。述べられた事実が正確そのもので、間違いが何一つ見出せなかったことである。

その大部分はわれわれサークルのメンバーには名前しか知られていない人物、時には名前すら知られない人物であった。友人や知人の場合もあった。それがかなりの長期間にわたって続けられたが、それと並行して私の霊視能力が急速に発達しはじめ、他界した友人と長々と話しを交わす①ことが出来るようになった。

私の潜在能力が開発されたらしく、情報が与えられたあとそれを霊視によって確認させてくれたりした。その霊視力はますます威力を増していき、遂には霊的身体が肉体から離れて行動しながら②実に鮮明な映像を見るようになった。

その中には地上のものでないシーンの中で意識的に生活し行動する場面もあり、またドラマチックな劇画のようなものが私の目の前で演じられることもあった。

その内容は明らかに何らかの霊的真理ないし教訓を伝えようとするものであった。が、そうした映像と関連した証拠によってその真実性を得心することが出来たのは二つだけであった。

と言うのも、映像を見る時の私は必ず入神しており、自分が目撃しているものが果たして実際にそこに存在するのか、それとも私の主観に過ぎないのかの判断が出来なかったからで、その二つだけは後で具体的証拠によって実在を確認することが出来たということである。その二つの場合の光景は本ものであったわけであるが、他の全ての映像も本物であったと信じている。

が、ここはそうした問題を詮索する場ではない。思うに、こうした映像は私の霊的教育の一環であったと認めざるを得ない。霊側側は私が霊視したものが実在であることを示さんとしたのであり、潜在的霊能が開発されたのは、肉眼で見えないものの存在を教え確信させようとする目的があったということである。

 この一月(一八七四年)にはスピーア博士のご子息③のまわりに発生していた霊現象に関連した通信の幾つかが活字となって発表された。ご子息の音楽的才能を発達させるためであることを知らされていた。通信は前年の四月十四日と九月十二日に書かれたものであった。そして二月一日に私から出した質問がきっかけとなってさらに情報が送られてきた。プライベートな事柄を述べた後次のように書かれた④───〕
 

















































 昨夜の雰囲気は音楽には良くなかった。あなたはまだよい音楽の出る条件をご存知ない。霊界の音楽を聞くまでは音のもつ本当の美しさは判らないであろう。音楽も地上の賢人が考えるより遥かに、われわれがよく口にする霊的条件の影響を受けているものである。

地上なりに最高の音楽を出すためにも霊的要素がうまく調和しないといけない。調和した時にはじめてインスピレーションが閃く。スピーア少年が師匠の指導を受けていた部屋は雰囲気が乱れていた。それで成果はよくなかったと言ったのである。

音楽家も演説家と同じである。演説家の口から音楽が出るに先立って聴衆との霊的調和が出来ていないといけない。それは音楽家は直感的に感じ取るのであるが、往々にしてその繋がりが出来ていなくてインスピレーションが演説家と聴衆との間の磁気的連鎖網を伝わらないために言葉が死んでしまって、まるで訴える力をもっていないことに気づいていない。

最高の成果が得られるのは音楽家なり演説家なりが背後霊団に囲まれて、本人の思念または本人に送られてくる思念がその影響で鈍化され、調和し、霊性を賦与された時である。

 言葉でも、冷たくぞんざいに発せられたものと心を込めて発せられたものとでは大いに違うように、音楽も全く同じことが言える。音があっても魂が籠っていない。聞いてみると、理由は分からなくても、何となく心に訴えるものがないことに気づくのである。

冷ややかで、平凡で、薄っぺらな感じで、ただの音でしかない。物足らなさを感じる。一方魂のこもったメロディーは、地上より遥かに美しく純粋なる霊界の思念を物語っていて、豊かな充実感を覚えさせる。魂の叫びが直接霊へと響くのである。魂が漲り、いかに反応の鈍い人間にも訴える無形の言葉を有している。

その言葉が魂に伝わり、魂はそれによって身体的感覚を鎮められ、乱れた心に調和をもたらせる。生命なき音が音楽の魂を吹き込まれて鼓動を始める。聞く者は心の充実を覚える。それは正に地上の肉体と、天国へ舞い上がる霊魂の差である。物質的・地上的なものと、天上的・霊的なものとの差である。

大聴衆を前にした音楽会において真の音楽の聞かれる条件が滅多に整わないのはそのためである。聞き取りにくい霊の声を明確に述べさせたいのであれば、もっと調和のある雰囲気を作り出すことである。

〔この通信には二人の世界的作曲家⑤と、他に数名の私の知人の署名が(生前そのままに)付してあった。〕


〔註〕
(1)意念による以心伝心的交信。霊界ではすべてこれによっておこなわれる。
(2)幽体離脱現象
(3)モーゼスは9年間に亙ってこの子の家庭教師をしている。
(4)イムペレーターではなく、地上で音楽家だった複数の霊による。
(5)本書に付したモーゼスの自動書記ノートの写真から判断すると、その二人はベートーベンとメンデルスゾーンであろう。
 
 









 




 
二十七 節

〔ある本でインドが民族と宗教の揺籃の地であるとの説を読んだことがあり、われらの交霊会でもその問題に触れた霊言を聞いたことがあった。その点を質すと───〕①
 




 その通りである。今の汝の信仰の底流となっている宗教的概念の多くはインドにその源流を発している。インドに発し、太古の多くの民族によって受け継がれてきた。その原初において各民族が受けた啓示は単純素朴なものであったが、それにインドに由来する神話が付加されていったのである。

救世主出現の伝説は太古よりある。いずれの民族も自分たちだけの救世主を想像した。キリスト教の救世主説も元を辿ればインドの初期の宗教の歴史の中にその原型を見いだすことが出来る。

インドの伝承文学の研究がこれまで汝が勉強してきた言語学的側面と大いに関わりがあるように、その遠く幽かな過去のインドの歴史の宗教的側面の研究は今の汝にとって必要欠くべからざるものである。関心を向けよ。援助する霊を用意してある。

 インド、ペルシャ、エジプト、ギリシャ、ローマ、ユダヤ───これらの民族とその知的発達に応じた神の概念の啓示の流れについて今こそ学ぶべきである。ジャイミニート②とヴェーダ・ヴャーサ③がソクラテスとプラトンの先輩であったことを知らねばならない。

そのことに関してはその時代に地上生活を送り、その事実に詳しい者がいずれ教えることになろう。が、その前に汝は地上に残る資料を自らの手で蒐集する努力をせねばならない。指導はそれが終了した後のことである。

 さらに汝はその資料の中に人間がいつの時代にも自分を救ってくれる者の存在の必要性を痛感してきたこと、そしてまた、そうした救世主にまつわる伝説が太古より繰り返されてきている事実を見出さねばならない。

数多くの伝説を生んだ神話の一つが、純潔の処女デーヴァキー④の奇跡の子クリシュナ⑤の物語であることも判るであろうし、そうした事実がこれまでキリスト教の中で闇に包まれていた部分に光を当てることにもなろう。

もっともわれらはこの事実を重大なるものとして早くから指摘してきた。汝の異常な精神状態がその分野に関する全くの無知と相俟って、われらを手控えさせたのである。

 このほかにもまだまだ取り除かねばならぬ夾雑物は多い。これを取り除かぬかぎり安心して正しき思想体系の構築は望めぬ。大まかな荒筋においてさえ汝にはまだまだ奇異に思えることが多い。まずそれに馴染んだ後でなければ細部へ入ることは出来ぬ。

例えば古代の四大王国、すなわちエジプト、ペルシャ、ギリシャ、ローマの哲学と宗教はその大半がインドから摂り入れたものである。インドの大革命家であり説教者であった Manou⑥が エジプトでは Manes となり、ギリシャでは Minos となり、ヘブライ伝説では Moses となった。いずれも固有名詞ではなく〝人間〟Man を意味する普通名詞であった。 

偉大なる真理の開拓者はその顕著な徳ゆえに民衆から The Man と呼ばれた⑦。民衆にとっては人間的威力と威厳と知識の最高の具現者だったわけである。

 インドの Manou(マヌ) はキリストの誕生より三千年も前の博学な学識者であり、卓越せる哲学者でもあった。いや実は、そのマヌでさえそれよりさらに何千年も昔の、神と創造と人間の運命について説かれたバラモンの教説の改革者に過ぎなかった。

 ペルシャのゾロアスター⑧の説ける真理も全てマヌから学んだものであった。神に関する崇高なる概念は元を辿ればマヌに帰する。法律、神学、哲学、科学等の分野において古代民族が受けたインドの影響は汝らが使用する用語がすべてマヌ自身が使用した用語と語源が同一である事実と同様に間違いなき事実であるとの得心がいくであろう。 

近代に至ってからの混ぜ物がその本来の姿を歪めてしまったために、汝には類似点を見出し得ぬかもしれないが、博学なる言語学者ならばその同一性を認めることであろう。

一見したところ世界の宗教はバラモンの伝承的学識のなかに類似性を見出だせぬかに思われるが、実はマヌが体系づけ、マーニー Manes がエジプトに摂り入れ、モーセ Moses がヘブライの民に説いた原初的教説から頻繁に摂取しているのである。

 哲学及び神学のあらゆる体系の中にヒンズー(インド)的思想が行き渡っている。たとえば、古代インドの寺院において絶対神への彼らなりの純粋な崇拝に生涯を捧げたデーヴァダーシー⑨と呼ばれる処女たちの観念は、古代エジプトではオシリス⑩の神殿に捧げられる処女の形を取り、古代ギリシャではデルポイ⑪の神殿における巫女となり、

古代ローマではケレース神⑫の女司祭となり、後にあのウェスタ―リス⑬となって引き継がれていった。

 が、これはわれらが汝に教えたいことの一例に過ぎない。ともかく汝の注意をその方向へ向けて貰いたい。われらはきわめて大まかな概略を述べたにすぎない。細かき点はこれより後に埋め合わせることにしよう。汝にはまだ概略以上のことは無理である。


───確かに私は知らないことばかりです。それにしてもあなたは人間がまるで霊の道具に過ぎないような言い方をされます。出来のいい道具、お粗末な道具、分かりのいい道具、分かりの悪い道具。

 これまでもしばしば述べてきた如く、知識は全て霊界よりもたらされる。実質はわれらの側にあり、汝らはその陰に過ぎない。地上にても教えやすい者ほど学ぶことが多いのと同じく、われらの交わりにおいても素直な者ほど多くを学ぶことになる。汝に学ぶ心さえあればいくらでも教える用意がある。

───人間には取り柄はないということですか。

従順さと謙虚さの取り柄がある。従順にして謙虚な者ほど成長する。


───もし霊側が間違ったことを教えた場合はどうなりますか。

すべての真理に大なり小なりの誤りは免れない。が、その滓(カス)はいずれ取り除かれるものである。


───霊によって言うことが悉く違う場合があります。どちらが正しいのでしょう。真実とは一体何なのでしょう。

 言うことが違っているわけではない。各霊が違う説き方をしているまでである。故に細部においては異なるところはあっても、全体としては同じことを言っている。汝もそのうち悪と呼んでいるものが、実は善の裏側に過ぎなぬことが判るようになるであろう。

地上においては混じり気なき善と言うものは絶対に有り得ない。それは空しき夢想と言うものである。人間にとっては真理はあくまで相対的なものであり、死後にも長期間に亙って相対的であることは免れない。

求めるようになるまではハイハイで我慢しなければならない。走れるようになるまでは歩くだけで我慢しなければならない。高く跳べるようになるまでは走るだけで我慢しなければならない。
                                          プルーデンス

〔私が「霊の身元」と題する記事⑭で紹介した、例の他界したばかりの霊による不思議な影響力を受けたのはこの頃であった。ある人がベーカー通りに近い通路の舗装工事中にローラー車の下敷きとなって悲惨な死を遂げ、私がたまたまその日に現場を通りかかったのである。その時私はその事故のことは知らなかった。

そしてその夜、グレゴリー夫人⑮の家でデュポテ男爵による交霊会に出席したところ、その霊が出現した。二月二十三日にその件のついて尋ねると、その霊の述べた通りであることが確認された。⑰〕
 









 
 その霊が汝に取り憑くことが出来たこと自体が驚きである。汝がその男の死の現場の近くを通りかかったからである。余りそのことは気にせぬ方がよい。心を乱される恐れがある。


───(最近他界した)私の友人がまだ眠りから覚めないのに、なぜその男はすぐに目を覚ましたのでしょう。

 非業の死を遂げた後の休眠を取っておらぬからである。本当は休眠した方がよいのである。休眠しないと、そのままいつまでも自縛の霊となる。そうした霊にとっては休息することが進歩への第一歩となる。未熟なる霊はなるべく休眠を取り、地上生活を送った汚れた場所をうろつかぬことが望ましい。


───あのような思っただけでもぞっとするような死に方をしていても霊は、傷つかないのでしょうか。

 肉体が酷い傷を受けても、霊まで傷つくことはない。但し激しいショックは受ける。それが為に休息できず、うろつき回ることになるのである。


───あの霊は死の現場をうろつき回ったのですか。それがどんな具合で私に取り憑いたのでしょうか。

 あのような死に方をした霊はよく現場をいつまでもうろつき回るものである。そこを汝が通りかかった。汝は極度に過敏な状態にあるから、磁石が鉄を引きつける如くに霊的影響をなんでも引き寄せてしまう。この種の霊的引力は汝にはまだ理解できぬであろう。

が、それでは困る。地上では低き次元での霊的引力の作用が現実にあるからである。毎日の交わりの中で引力と斥力とが強力に作用している。

大半の者は気づいておらぬが、全ての人間、とくに霊感のある者は、その作用を受けている。肉体がなくなれば一層その作用が強烈となる。五感を通して伝達されていたものが、親和力とそれと相関関係にある拝斥力の直感的作用に代わるのである。

 が、この件に関しては余り気にせぬがよい。余り気にすると、再び親和力の法則が働いて、未発達の害毒を引き寄せることになる。彼には思慮分別の力はない。そのことは、あの気の毒な霊も汝に取り憑いたことで何の益にもならなかったことで知れる。
                               ♰   イムペレーター


  〔註〕
  (1)プルーデンスが回答。三世紀のエジプト生まれの哲学者プロティノス。ギリシャ、ローマで学ぶ。
  (2)Djeminy. (正確にはJaimini)

  (3)Veda  Vyasa.(ジャイミニーの師) 
  (4)Devaki.
  (5)Chrishna または Krishna.
  (6)原文のままであるが、インド哲学の専門家によれば  Manu が正しく Manou という綴りは有り得ないという。訳者の推測では Manu を英語読みにするとマニューとなるので、モーゼスの英語感覚の影響を受けて原文のようになったのであろう。 
  (7)現在でもその年で最も活躍の目覚ましかった者を、 The Man of the Year などと呼ぶ。
  (8)Zoroaster 紀元前六百年頃の宗教家。ゾロアスター教の開祖。
  (9)Devadassi.
(10)Osiris.
(11)Delphi.
(12)Ceres.
(13)Vestal  virgin 女神ウェスタ  Vesta に身を捧げた処女。
(14)心霊誌 Light に連載。
(15)Mrs.  Mackdougall Gregory.
(16)the Baron Dupotet.
(17)再びイムペレーターが回答。
 
 
 























    
 二十八 節

〔一八七四年二月二十六日。この頃に催した交霊会で訳のわからない直接書記の現象が出た。奇妙な象形文字で書かれていた。それについて尋ねると───〕
 



 汝には解読できぬであろうが、あの文は大変な高級霊によるものである。その霊は偉大なる国家エジプトが最も霊的に発達した時代に生を享けた。当時のエジプト人は霊の存在とその働きについて今の汝ょり遥かに現実味のある信仰を抱いていた。

死後の存続と霊性の永遠不滅性について、現代の地上の賢人より遥かに堅固なる信仰をもっていた。彼らの文明の大きさについては汝もよく知っていよう。その学識はいわば当時の知識の貯蔵庫のようなものであった。

 まさしくそうであった。彼らには唯物主義の時代が見失える知識があった。ピタゴラス①やプラトンの魂を啓発せる知識、そしてその教えを通して汝らの時代へと受け継がれて来た知識があった。古代エジプト人は実に聡明にして博学なる哲学者であり、われらの同志がいずれ汝の知らぬ多くのことを教えることになろう。

地上にてすでに神と死後について悟りを得ていた偉大なる霊が三千有余もの時を隔てて、その後の地上での信仰の様子を見るに参る。

その霊が霊界にて生活するその三千有余年、それは汝の偏狭なる視野を以てすれば、大いなる時間の経過と思えるであろうが、その時代の流れが新たなる真理の視野を開かせ、古き誤謬を取り除かせ、古き思索に新たなる光を当てさせ、同時にまた、神と、人間の生命の永遠性についての信念を一層深めさせることになったのである。

〔私は、それにしても一体何のためにわれわれに読めない文字を書いてきたのかが判らないと述べ、その霊の地上での名前を尋ねてみた。〕
 



 いずれ教える時も来よう。が地上での身元を証明するものは全て失われている。直接書記から何の手掛かりも得られぬと同じで、彼の名を知る手掛かりはあるまい。その霊は地上にてすでに物的生活が永遠の生命の第一歩に過ぎぬことを悟っていた。

そして死後、彼自身の信じるところによれば、地上にて信じていた太陽神ラー③のもとまで辿り着いたのである。

〔彼もある一定期間の進歩の後に絶対神の中に入滅してしまうと信じているのかどうかを尋ねた。〕
 



 古代エジプト人の信仰に幾分そうした要素があった。哲学者たちは、段階的進化の後に人間臭がすっかり洗い清められ、ついには完全無垢の霊になると信じた。その宗教は死後の向上と現世での有徳の生活であった。他人と自己に対する義務を忘れず、いわば日常生活が即宗教であった。

この点については汝の知識の進歩を見て改めて説くことになろう。差し当たり古代エジプトの神学の最大の特質───肉体の尊厳───には正しき面と誤れる面とがあることを知ることで十分である。

 エジプト人にとって生きとし生けるもの全てが神であり、従って人間の肉体もまた神聖なるものであり、死体も出来うるかぎり自然の腐敗を妨がんとした。その見事な技術の証拠④が今なお残っている。肉体の健康管理に行き過ぎた面もあったが、適切なる管理は正しくもあり、賢明でもあった。

彼らは全ての物に神を認めた。この信仰は結構であった。がそれが神を人間的形体を具えたものと信じさせるに至った時、死体の処理を誤らせることになった。無限の時間をかけて無数の再生をくり返す輪廻転生の教義は、永遠の向上進化を象徴せんとして作り出された誤りであった。

こうした誤りがあらゆる動物的生命を創造主の象徴と見なし、数かぎりなき転生の中において、いずれは人間もそれに生まれ変わるものとする信仰を生んだのであるが、この信仰は死後の向上進化の過程の中において改めていかねばならぬ。

が、その中には神を宇宙の大創造力と見なし、その象徴であるところの全ての生命が永遠に向上進化するとの大真理が込められていることは事実である。

 動物の生命を崇拝するということが汝には愚かしく、浅はかに思えるとしたら───そう思うのも無理からぬことであるが───信仰というものは外面的な象徴的現象を通して、それが象徴するところの霊的本質へと向けられるものであること、そして真理を内蔵せる誤謬はいわば外殻であり、やがて時と共に消え失せ、あとに核心を残していくための保護囊である場合もあることを忘れてはならぬ。

中核の概念、つまり真理の芽は決して死滅しておらぬ。その概念が媒体によって歪められ、本来の姿とは異なる形を取ることは有る。が、一たんその媒体を取り除けば、本来の姿を取り戻す。

先に話題にのせたエジプトの霊も、またその時代の仲間たちも、今では地上世界の自然を全て絶対神の現象的表現と見なし、それ故に、たとえ如何なる形にせよ、地上的生命を崇拝の対象とすることは出来ぬとは言え、そうした自然崇拝を通して神を求め模索する霊を不当なる批判の目を以て迎えるべきではないことを悟っている。その辺が汝には理解できるであろうか 。

───ある程度出来ます。全てが神を理解する上で存在価値を有していることが判ります。ですが私は、エジプトの神学はインドの神学に較べて唯物的で土臭いところがあると思っていました。

世界の宗教に関するあなたの通信を読むと、エジプトはインドから刺戟を受けたような印象を受けます。思うに、すべての真理に誤りが混入しているように、どの誤りにもある程度の真理が含まれており、真理といい誤謬といい、両者は相関的であり絶対ではないようです。


 今ここでインドの神学の特徴について詳しく述べようとは思わぬが、汝の述べるところは真実である。

われらとしてはただ、真理というものが今の時点での汝には不快に思えるような形で潜在していたこと、そして古代人には理解されていたそれらの真理も、近代に至ってその多くが完全に消滅してしまっていることを汝に知らしめんとしているまでである。

汝自身の知識と古代人の知識とを評価するに当たっては謙虚であることが大切である。

───判ります。そうした問題に関して近代人がおしなべて無知であることを知る知るばかりです。私自身具体的には何も知りませんし、いかなる形式にせよ、古代の宗教を軽蔑することこそ愚かであることが判ります。例の古代霊はそうした時代に生活したわけですがエジプトの司祭だったのでしょうか。

 彼はオシリス⑤に司える予言者の一人であり、深遠にして一般庶民に説き得ぬ神秘に通暁していた。オシリスとイシス⑥とホルス───⑦これが彼の崇拝した三一神⑧であった。オシリスが最高神、イシスが母なる神、るそしてホルスが人間の罪の犠牲者としての子なる神であった。

彼はその最高神を汝らの歴史家がエジプトより借用せる用語にて、いみじくも表現せる I am the I Am⑨───すなわち宇宙の実在そのものであることを理解していた。。生命と光の大根源である。それを意味するエホバ⑩なる語をモーセがテーべの司祭たちから借用したのである。

───言語ではどういったのでしょうか。

  Nup-pu-Nuk` すなわち  I an the I AM.


 この通信を送って来たのは例のラーの予言者である。〝光の都市〟オン⑫、ギリシャ人が〝太陽の都市〟⑬と呼ぶ都市の予言者で、汝らの言うキリスト教時代より一六三〇年も前に生活した。その名をチョムと言った。彼は遠き太古の時代からの霊魂不滅の生き証人である。余がその証言の真実性を保証する。
                               ♰ イムペレーター

〔私はエジプト神学を勉強するよい記録は手に入らぬものかと尋ねた。〕
 


 その必要はない。当時の古記録はほとんど残っていない。ミイラの棺の中に納められた埋葬の儀式に関する書きものは全てその古記録からの抜粋である。前にも述べた如く、死体の管理がエジプト宗教の特徴であった。葬儀は永く且つ精細を極め、墓石並びに死体を納めた棺に見られる書きものはエジプト信仰の初期の記録から取ったものである。

 こうしたことに汝は深入りする必要はない。今の汝に必要なのは、汝が軽蔑する古代の知識にも真理の芽が包蔵されていたという厳粛なる事実を直視し理解することである。

 それだけではない。エジプト人にとって宗教は日常生活の大根源であり、全てがそれに従属していたのである。芸術も文化も科学も、いわば宗教の補助的役割をもつものであり、日常生活そのものが精細きわまる儀式となっていた。

 信仰が全ての行為に体現されていた。昇りては沈む神なる太陽が生命そのものを象徴していた。当時を起点として二つのソティス周期⑯、つまりは凡そ二千年後に再び地球に戻り、遂には生命と光の根源たるラー神の純白の光の中に吸収しつくされると信じたのである。

 斎戒の儀式が日常生活に浸透し、家業に霊性の雰囲気が漂っていた。一日一日に主宰霊又は主宰神がおり、その加護のもとに生活が営まれるという信仰があった。各寺院に大勢の予言者、司祭、神官、土師、書記がいた。その全てが神秘的に伝承に通じ、大自然の隠れた秘密と霊光の奥義を極めんがために純潔と質素の生活に徹した。

古代エジプト人は実に純粋にして学識ある霊的民族であった。もっとも今の人間に知られている知識で彼らが知らなかったものが色々とある。が、深き哲学的知識と霊的知覚の明晰さにおいては現代の賢人も遠く及ばぬ。

 また宗教の実践面においても現代人はその比ではない。われらはこれまでの長き生活を通じ、宗教とは言葉にあらずして行動によって価値評価すべきであるとの認識を持っている。天国へ上るはしごはどれでも構わぬ。誤れる信仰が少なからず混じっていることもあろう。今も昔も人間は己の愚かな想像を神の啓示と思い込んでは視野を曇らせている。

その点はエジプト人も例外ではない。確かにその信仰には誤りが少なからずあった。が、同時にそれを補い生活に気高さを与えるものもまた持っていた。少なくとも物質一辺倒の生活に陥ることはなかった。常にどこかに霊的世界との通路を開いていた。

神の概念は未熟ではあったが、日常生活の一つ一つに神の働きかけがあるものと信じた。売買の取引においても故意に相手を騙し出し抜くようなことは決してしなかった。確かに一面において滅び行くもの、物的なものに対する過度の執着はみられたが、それ以外のものを無視したわけではなかった。

 現代にも通じるものがあることに汝も気づくであろう。余りにも物質的であり、土臭く、俗悪である。思想も志向も余りに現世的である。霊性に欠け、気高き志向に欠け、霊的洞察力に欠け、霊界及び霊界との交信への現実的信仰に欠けている。

われらが指摘せずとも汝には古代エジプトとの相違点が判るであろう。と言って、われらは古代エジプトの宗教を汝らにそのまま奨揚するつもりはない。ただ汝の目に土臭く不快に見えるものも、彼らにとっては生きた信仰であり、日常生活を支配し、その奥に深く霊的叡智を包蔵していたことを指摘せんとしているまでである。


───判ります。ある程度そういうことが確かに言えると思います。あらゆる信仰形式について同様のことが言えるように思います。それは全て永遠の生命を希求する人間の暗中模索の結果であり、その真実性は啓発の程度によって異なります。

それにしても、現代という時代についてあなたがおっしゃることは少し酷すぎます。確かに物質偏重の傾向はあります。が一方にはそれを避けんとする努力も為されております。

好んで物質主義にかぶれている者は少ないと思います。宗教、神、死後等に関する思想が盛んな時代があるとすれば、現代こそその時代と言えると思います。あなたの酷評は過去の無関心の時代に向けられるべきで、少なくとも無関心から目覚め、あなたの指摘される重大問題に関心を示している現代に当てはまらないと思うのですが。

 そうかも知れぬ。確かに汝の言う如く、現代にはそうした問題に関心を示す傾向が多く見られる。その傾向があるかぎり希望も持てるというものである。が、一方には人間生活から霊的要素を排除せんとする強き願望があることも真実である。

全てを物質的に解釈し、霊との交わりを求め霊界の存在を探求せんとする行為を間違い、あるいは妄想とまでは言わなくとも、少なくとも非現実的ものとして粉砕せんとする態度が見られる。一つの信仰形体から次の信仰形体へと移行する過渡期には必然的に混乱が生ずる。古きものが崩れ、新しきものが未だ確立されていないからである。

人間は否応なしにその時期を通過せねばならない。そこには必然的に視野を歪める傾向が生じるものである。


───おっしゃる通りです。物事が流動的で移り変わりが激しく、曖昧となります。勿論そうした時には混乱に巻き込まれたくないと望むものも大勢います。あまりに長い間物質中心に物事を考えて来たために、物質は所詮霊の外殻に過ぎないという思考にはどうしても付いて行けない者もいます。

それは事実であるとしても、古代ギリシャは別格として、現代ほど霊的摂理と自然法則についての積極的な探求が盛んな時代は、私の知るかぎり他になかったという信念は変わりません。

 汝がそう思うこと自体は結構である。われらとしても徒にその信念を揺さぶりたいとは思わぬ。ただ汝の目に卑俗で土臭く見える信仰の中にも真理が包蔵されていることを、一つの典型を挙げて指摘せんとしたまでである。


───モーセはエジプトの知恵をそっくり学んで、その多くを律法の中に摂り入れたのだと思いますが。

 まさしくその通りである。割礼の儀式もエジプトの秘宝から借用したものである。ユダヤの神殿における斎戒の儀式もすべてエジプトからの借用である。また司祭の衣服をリンネル作ったのもエジプトを真似たものである。

神の玉座を護衛する霊的存在ケルビム⑰の観念もエジプトからきている。いや、そもそも〝聖所〟だの〝至聖所〟だのという観念そのものがエジプトの神殿からの借用にすぎない。ただ、確かにモーセは教えを受けた司祭から学び取ることに長けてはいたが、惜しむらくは、その儀式の中に象徴されている霊的観念までは借用しなかった。

霊魂不滅と霊の支配という崇高なる教義は彼の著述の中にその所を得ていない。汝も知る如く、霊が辿るべき死後の宿命に関する言及は一切見られない。霊の出現も偶然に誘発された、単なる映像と見なしており、霊の実在の真理とは結びつけていない。


───その通りです。エジプトの割礼の儀式はモーセの時代以前からあったのでしょうか。

 無論である。証拠が見たければ、今なお残されていアブラハム以前の、宗教的儀式によって保存された遺体を見るがよい。


───それは知りませんでした。モーセは信仰の箇条まで借用したのですか。

 三一神の教義はインドのみならず、エジプトにも存在した。モーセの律法に霊性を抜きにしたエジプトの儀式が細かく複製された。


───それほどのエジプトの知恵の宝庫がなぜ閉じられたのでしょうか。孔子、釈迦、モーセ、マホメットなどは現代にも生き続けております。マーニー⑱はなぜ生き残らなかったのでしょう

 彼の場合は他へ及ぼせる影響としてのみ生き残っている。エジプトの宗教は特権階級のみにかぎられていた。ために国境を越え広がる勢いがなく、長く生き残れなかったわけである。聖職者の一派の専有物としての宗教であり、その一派の滅亡と共に滅んだ。但し、その影響は他の信仰の中に見られる。


───三位一体の観念のことですが、あれは元はインドのものですかエジプトのものですか。

 想像力と破壊力とその調停者という三一神の神の観念は、インドのおいては Brahm, Siva, Vishnu,  エジプトにては Osiris,  Tyhon,  Horus,  となった。エジプト神学には他には幾通りもの三一神があった。ペルシャにも Ornuzd,  Ahriman,  Mithra, (調停者)というものがあった。

 エジプトでは地方によって異なれる神学が存在した。最高神としての  Pthah` 太陽神すなわち最高神の顕現としての  Ra`  未知の神  Amun といった如く、神にも種々あった。


───エジプトの三一神は、オシリスとイシスとホラスであると言われたように記憶していますが。

 生産の原理としてのイシスを入れたまでである。つまり創造主としてのオシリス、繁殖原理としてのイシス、そしてオシリスとイシスとの間の子としてのホルス、ということである。三一神の観念にも色々あった。大切なのは全体の観念であってその一つ一つは重要ではない


───ではエジプトはインドから宗教を
移入したということでしょうか。

 一部はそうである。が、この分野に関して詳しく語れる者われらの霊団にはいない。
                                           ブルーデンス
〔以上は一八七四年二月二十八日に書かれたものである。四月八日にさらに回答が寄せられた。その間にも他の問題に関するものが数多く書かれた。⑲〕
 




 汝は先にインドとエジプトとの関係について問うている。インドの宗教が〝魂〟の宗教であったのに比して、エジプトの宗教は本質的には〝肉〟の宗教であった。雑多な形式的儀式が多く、一方のインドでは瞑想が盛んであった。

インド人にとって神とは肉眼では見出し得ぬ霊的実在であり、一方エジプト人にとっては全ての動物的形体の中に顕現されていると信じられた。インド人にとって時間は無であった。すなわち、無窮であり全体であった。

エジプト人にとって、過ぎゆく時はその一刻一刻に聖なる意味があった。かくの如くエジプトは全ての面においてインドとは対照的であった。がペルシャのゾロアスターがそうであった如く、インドより最初の宗教的啓発を受けている。

 前にも述べた如く、
  
 
 
 


 
  二十九 節
〔一八七四年三月十五日。この頃までに他人の名を詐称する霊が出没しているから注意せよとの警告がしきりに出され、その特殊なケースが実際に他のサークルで起きたことで一段としつこくなっていた。その問題に関連して数多くの通信が送られてきたが、その中で唯一普遍的な内容をもつものを紹介する。〕
 





 このところわれらの要請がしつこくなっているが、それは人を騙さんとして他人の名前を詐称する霊にはめられる危険性について、これまでも再三警告してきたことを改めて繰り返す必要を痛感しているからである。そうした連中も〝未熟霊〟の中に入る。

その種の霊による面倒や困惑の危険性が汝の身辺に迫っており、その餌食とならぬようにと、最近特に注意を促したばかりであろう。いかにもわれらに協力せんとしているかの見せかける霊が存在することをわれらは確かめている。

その目的とするところはわれらの仕事に邪魔を入れ進行を送らせることにある。

 この点については十分に説明しておく必要がある。すでに聞き及んでいようが、今汝を中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に熾烈なる反目がある。われらの霊団と邪霊集団との反目であり、言い換えれば人類の発達と啓発のための仕事と、それを遅らせ挫折させんとする働きとの闘いである。

それはいつの時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いである。逆行派の軍団には悪意と邪心と悪知恵と欺瞞に満ちた霊が集結する。未熟なる霊の抱く憎しみによって煽られる者もいれば、真の悪意というよりは、悪ふざけ程度の気持ちから加担する者もいる。

要するに、程度を異にする未熟な霊がすべてこれに含まれる。闇の世界より光明の世界へと導かんとする、われらを始めとする他の多くの霊団の仕事に対し、ありとあらゆる理由からこれを阻止せんとする連中である。

 汝にそうした存在が信じられず、地上への影響の甚大さが理解できぬのは、どうやらその現状が汝の肉眼に映らぬからであるようである。となれば、汝の肉眼が開くまではその大きさ、その実在ぶりを如実に理解することは出来ぬであろう。

その集団に集まるのは必然的に地縛霊、未発達の類である。彼らにとって地上生活は何の利益ももたらさず、その意念の赴くところは彼らに彼らにとっては愉しみの宝庫とも言うべき地上でしかなく霊界の霊的喜びには何の反応も示さぬ。

曾て地上で通い慣れた悪徳の巣窟をうろつきまわり、同質の地上の人間に憑依し、哀れなる汚らわしき地上生活に浸ることによって、淫乱と情欲の満足を間接的に得んとする。

 肉欲の中に生き、肉欲のためにのみ生き、今その肉体を失える後も、肉欲のみは失うことの出来ぬこの哀れなる人間は、地上生活に感応しやすき同類を求め、深みに追いやることことをもって生きる拠り所とする。それを措いて他に愉しみを見出し得ぬからである。

地上では肉体は既に病に蝕まれ精神はアルコールによって麻痺されていた。それが曾ての通い慣れた悪徳の巣窟をさ迷い歩き、憑りつきやすき飲んだくれを見つけてはけしかける。

けしかけられた男らは一段と深みにはまる。それが罪もなき妻や子の悲劇を広げ、知識と教養の中心たるべき都会の片隅不名誉と恥辱の巣窟を生む。そうすることに彼らは痛快を覚え、満足の笑みをもたらすのである。こうした現実が汝らの身のまわりに実在する。

それに汝らは一向に気づかぬ。かくの如き悪疫の巣がある───あるどころか、ますます繁栄しのさばる一方でありながら、それを非難する叫び声は一体地上のいずこより聞こえるであろうか 。何故どこからも非難の声が上がらぬのであろうか。

何故か? それも邪霊の働きに他ならぬ。その陰湿なる影響によって汝ら人間の目が曇らされ、真理の声が麻痺されているからに他ならぬ。その悪疫は歓楽街のみに留まらぬ。

そこを中心として周囲一円に影響を及ぼし、かくして悪徳が絶えることがないのである。

曾ての飲んだくれは───汝らの目には死んだと思えようが───相も変わらず飲んだくれであり、その影響もまた、相も変わらず地上の同類の人間の魂を蝕み続けているのである。

 一方人間の無知の産物たる死刑の手段によって肉体より切り離された殺人者の霊は、憤怒に燃えたまま地上をうろつきまわり、決しておとなしく引っ込んではおらぬ。毒々しき激情をたぎらせ、不当な扱いに対する憎しみ───その罪は往々にして文明社会の副産物に過ぎず彼らはその哀れなる犠牲者なのである───を抱き、その不当行為への仕返しに出る。

地上の人間の激情と生命の破壊行為を煽る。次々と罪悪を唆(ソソノカ)し、己が犠牲となりしその環境のその永続を図る。汝らは一体いつになれば毎日の如く、否、時々刻々と処罰している罪悪が実は混雑せる都会生活の産み出す必然の副産物に過ぎぬことを悟るのか。

根本の腐敗の根源をそのままにして、何故に醜き枝葉のみを切り落とすのか。共同責任において生み出せる哀れむべき仲間を何故に無慈悲に処分するのか。汝らは実は利己主義なのである。その利己主義が何故に憎悪に燃える霊を敵にまわす行為をしでかすのか。

ああ、友よ、汝らの旧時代的刑法が誤れる認識の上に成り立っており、犯罪防止よりむしろ悪用を生んでいることに気づくまでには、汝ら人間はまだまだ幾多の苦難を体験せねばならぬであろう。

 かくの如く、地上の誤りの犠牲となって他界し、やがて地上に舞い戻るこうした邪霊は当然のことながら進歩と純潔と平和の敵である。われらの敵であり、われらの仕事への煽動者となる。至極当然の成り行きであろう。久しく放蕩と堕落の地上生活に浸れる霊が、一気に聖にして善なる霊に変わり得るであろうか。

肉欲の塊が至純なる霊に、獣の如き人間が進歩を求める真面目な人間にそう易々と変われるものであろうか。それがあり得ぬことくらいは汝にも判るであろう。

彼らは人間の進歩を妨げ、真理の普及を阻止せんとする狙いにおいて、他の邪霊の大軍と共に、まさに地上人類とわれらの敵である。真理の普及がしつこき抵抗に遭うのは彼らの存在の所為であり、汝にそうした影響力の全貌の認識は無理としても、そうした勢力の存在を無視し彼らの攻撃にスキを見せることがあってはならぬ。

 この警告はいくら強調しても強調しすぎることはない。その働きが常に潜行的であり、想像を超えた範囲に行き渡っているだけに、なおのこと危険なのである。

地上の罪悪と悲劇の多くはそうした邪霊が同種の人間に働きかけた結果に他ならぬ。地上の名誉を傷つけ、体面を辱めるところの、文明と教養の汚点とも言うべき戦争と、それに伴う数々の恐怖もまた、彼らの仕業である。大都会を汚し、腐敗させ、不正と恥辱の巷と化す犯罪を醸成するのも彼らなのである。

 汝ら文明人は知識の進歩を誇り、芸術と科学の進歩を誇り、文化と教養の進歩を誇る。文明を誇り、己の国を飾り立てて高揚するキリスト教を地上の僻地にまで広めんと大真面目で奔走する。のみならず、それを汝らのみに授けられた神の万能薬として、彼らに押しつけんとする。

その押しつけんとする宗教と文明が汝らにもたらす現実については、彼らには言わぬが華であろう。われらが繰り返し説ける如く、汝らの説く宗教は、真のキリスト教の名に与えする単純素朴にして、純粋なる信仰の堕落による退廃的所産に他ならぬ。

汝らの誇りとする文明も文化もうわべのみの飾りに過ぎず、化膿せる傷口は到底隠しきれず、霊眼には歴然として正視できぬ。それが人間性に及ぼす影響に至っては、その本来の崇高なる感覚を汚し、空虚さと偽瞞と利己主義しか産み出さぬ。

その点においては、人間本来の感性を文明によって矮小化されず麻痺されることのなかった砂漠の民のアラブ人、あるいはアメリカ・インデアンのほうが、人を出し抜き、ペテンにかけることに長けた滑稽なる商人、あるいは文化的生活に毒された巧妙なる弁舌家や淫乱きわまる文明人より遥かに高潔であることが、往々にして見受けられるのである。

 地上の大都会はまさに悪徳と残忍と利己主義と無慈悲と悲劇のるつぼである! 魂は真理に飢え、途方に暮れている。霊的影響力を受け付けぬ雰囲気の中で暮らす彼らは、より清く、より平静なる雰囲気を求めて悶え苦しむ。

が、その悶えも、取り囲む闇の帳を突き抜けることが出来ぬ。必死の向上心も繰り返される悪の誘いに打ち砕かれる。せっかくの決意も邪霊に奪われる。かくして彼らは次第にそうした邪霊の働きかけへの抵抗力を失う。

その段階まで至れば、自暴自棄の念を吹き込むのはいとも簡単である。それが悪徳を大きく助長し、救いへの正道がほぼ完全に閉ざされる。

 では、そうした不純と淫乱と懊悩の巷───実はすぐ目と鼻の先の汝らの同胞の住める都会であり、そこでは金さえあれば少なくとも身体的労苦からは逃れられるが───そうした巷より霊界入りする人間はその後如何なる経過を辿るであろうか。

彼らの住める環境は、見た目には霊と肉を堕落させる恥ずべき環境とは思えぬ。が、そこに漂う霊的雰囲気は属悪臭に満ち溢れている。

金儲けのみが人生であり、愉しみと言えば飲食と酒色である。雰囲気は金銭欲と権力欲と、その他ありとあらゆる形の利己心である。そうした環境にて暮らせる人間の魂が死後いかなる状態に置かれるか───汝は一度でも想像してみたことがあるであろうか。

魂の糧となるべきものを知らず、成長もなく、携わるべき仕事も持たぬ。

発育は歪(イビツ)となり、落ち着くところは古巣の地上でしかなく、金と欲の巷に舞い戻ったところを、待ち受けていた邪霊に掴まり、唆(ソソノカ)され、欲望を一層掻き立てられ、われらには近づき難き存在となる。

そうなるが最期、悪徳の巣窟である歓楽街の酒色に溺れる霊と同じく、われらは手を施す術を知らぬ。辺りはむせ返る雑踏───そこでは金のみが物を言い、利己心と貪欲と盗みが横行する。そこは邪霊集団の行動の中心地であり、そこより毒々しき影響力が発散されていく。

 が、汝らはそれに一向に気づかぬ。諸悪の根源に無知であり、その所悪に恰好の場を提供している点において愚か極まる。悪の環境を永続させるのはその愚かさに他ならぬ。

そして地上に生命が誕生し発達し霊性を開発していく、その本来の原理・原則を理解せしめんとするわれらの努力を一層困難なものにする。これまでにも結婚生活のもつ重大なる意義について理解せる高邁なる改革者が幾人かいた。

われらも汝に理解し得る範囲での見解を述べてきた。世の中がさらに進歩した時点において説くべきものが、まだまだ数多く残っている。が、今はその時期ではない。

差し当たり、われらとしては、結婚生活というものが病と犯罪と貧困と精神病の重大なる問題と密接に結びつける問題であることを指摘しておく。それが人間との係わりにおいてわれらを悩ませ混乱せしめている。

その多くが結婚生活にまつわる愚劣なる思想、さらには陰謀きわまる犯罪的処罰───犯罪的であると同時に、より一層愚かでもある法律に帰されるべきである。

そのことは無知・無教養の階層に劣らず教養ある上流階級についても言えることである。否、むしろその最大の罪は富める階層にあるであろう。汝らはこれまで抱いてきた結婚にまつわる観念を大いに改めねばならぬ。






 
 
 
 
     三十節
三十一節
三十二節
三十三節
解  説 (訳者)
人間の代理人としてのモーゼス(梅原伸太郎)
  
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